第一幕付録「赤い鳥」童謡と芥川龍之介



 『柿の木境界人の集い』は「母」「子」「劇」を主題に書いた脚本で、そのうち「子」に関係するであろう鈴木三重吉主幹の児童文学雑誌「赤い鳥」をあちらこちらでモチーフに使用しています。「赤い鳥」については本編でも触れるシーンが御座いますので詳しくはそちらの付録で。
 今回第一幕にある陽香の台詞「かなりや、冬景色、それと、あかとんぼ……こないだは浜千鳥で、……あわて床屋もあったと思うわ」より、童謡についてと、また彼女の話題に出て来た芥川龍之介についてお話したいと思います。

 大正七年に創刊された「赤い鳥」ですが、児童向け文学掲載のほかに、戯曲、文章の綴り方、募集絵画、募集写真等、芸術に関するものを取り入れ、当時東京では芸術教育が始まったこともあり、教育の場で使用されることもありました。童謡の掲載もそのひとつでしょう。初めは詞を載せていたのを、読者からの「通信」欄等での要望で曲をつけるようになり、そしてその第一号が「かなりや」でした。白秋は三重吉と喧嘩して「赤い鳥」を去る迄、たくさんの童謡を「赤い鳥」に掲載しました。
 ところが現在、あんまり「赤い鳥」童謡ッて有名でない。この「かなりや」と「あわて床屋」以外、知られているものがぽつぽつしかない。そこで、他の童謡や唱歌を合間に挿入しました。浜千鳥は弘田龍太郎作曲で、「赤い鳥」にも参加しています。
 「赤い鳥」のそもそもが、それまでの説話的・近世的な子ども向け文学を打破する目的で創刊されたものですが、赤い鳥童謡も同様に、芸術性の高いものをと作詞されています。
 芥川龍之介もまた、「赤い鳥」へ作品を掲載したうちのひとりです。が、掲載された芥川作品は、三重吉が自分好みに筆を入れています。また、江口渙はこのようなエピソードを紹介しています。

わたしと芥川龍之介と鈴木三重吉の三人で一しょに漱石山房の門を出て牛込矢来のうすぐらい街を歩いているときである。三重吉がふっと思い出したようにいった。
「こんどいよいよ子供のための文芸雑誌を出すことになったんじゃ。いままでの子供の雑誌、あんまりひどいんでなあ。それで芥川君。創刊号にぜひきみに書いてもらいたいんじゃ。たのむ」
「何枚ぐらいです」
「十枚か十五枚ぐらいがいいな」
「じゃ、何か書きましょう」
「ぜひ頼む。江口君にもそのうちに書いてもらうことにしているから頼むよ」
 前々からそういううわさを聞いていたわたしは
「雑誌の題はどうきまりました?」
ときいた。
「“青い鳥”という題にしたよ」
「“青い鳥”じゃメエテルリンクの“青い鳥”とかちあって変じゃないですか」
「でも、いろいろと考えてみたんだが、何としてもいい題がないので“青い鳥”に落ちついたんじゃ」
と、三重吉は、いかにも「仕方がなかったんだ」という風に答えた。
(『解説 赤い鳥の本・「赤い鳥」童謡』「鈴木三重吉と「赤い鳥」/江口渙」 ほるぷ出版 一九七七年)

 こうして創刊号に掲載されたのが、今日でも有名な「蜘蛛の糸」です。彼はほかにも「犬と笛」「アグニの神」なんかを「赤い鳥」へ寄稿しました。三重吉が筆を入れなかったのは、丹野てい子曰く小川未明等少数の作家のものしかなかったので、それらにも三重吉の筆が入っていると考えて良さそうです。
 というのも、芥川は翻案を中心に創作する作家でした。つまり「それまでの」文学に大きく影響されるスタイルです。なので「犬と笛」なんかも、巌谷小波「こがね丸」とテンプレートが似通っているように思えます。まず正義が主役の討伐ものであり、そして勧善懲悪であり、調子のよい文章もある。三重吉は「赤い鳥運動」のために著名な作家を使いたかったところもあり、自分の好みで掲載作品を選べなかったということもあったかもしれません。それで取捨選択して発刊されたのが『赤い鳥の本』なわけですが、個人的には菊池寛「宮本武蔵と勇少年」等、教訓的要素の含まれたものも収録されているので、どういった意図で『赤い鳥の本』収録作品を決めたのかは髄までは判りません。
 ところで陽香が「晩年の芥川」についてちょろっと言葉にしていますが、此方は若干内容に関係があるので、また後々に。

2014/06/09