第二幕付録 日本書紀よりも古事記を好むか



 お前は気象予報士の言葉をすべて信じ鵜呑みにすることができるか。お前にはワイドショーで少年Aと報じられたい願望があるか。お前は裁判で、被告ではなく原告の立場になってみたいと思うか。お前は手から離れた真っ赤な鳥をすぐにあきらめることができるか。お前は日本書紀よりも古事記を好むか。お前は道端に落ちている小さな靴の持ち主に想いを馳せることがあるか。お前は母親との子供を作りたいと思うか。お前は自らの手足をもいで義肢を得たいと願うことがあるか。お前は数学に胸を刺されると恐怖したことがあるか。お前はヒステリー女の発狂を見て美しいと感じることができるか。
 高天がつらつらとしてくれていた質問の一覧です。その中で今回挙げてみるのは「お前は日本書紀よりも古事記を好むか」部分。

 「赤い鳥」においては、主幹である鈴木三重吉が筆を取って再話した「古事記物語」が存在します。
 『古事記物語』は、『赤い鳥』第三巻一号(大正八年)から第五巻三号(大正九年)に渡り連載された全一五話の「日本歴史物語」を、加筆して一九篇にまとめ、「赤い鳥の本」シリーズの第一・二巻として出版したものです。上巻・下巻ともに大正九年の発行。三重吉は、『古事記物語上巻』の「序」において、以下のような点を挙げております。

・私はこの物語を、一種の藝術的作品として、少年少女諸君へと共に、私のすべての讀者諸君に捧げる。
・少年少女諸君にとつて、さしあたり意味の少い謠を、いろいろはぶいたのと、小さい人たちの讀みものとして、或、人間的交渉の叙述に、止むなき手加減を加へた以外には、すべて一行一行の話出にも、私は出来るだけ「古事記」の記述をそのまゝ追従することに努力した。
・あくまで少年少女諸君に分るだけの、平俗な言葉と、普通の語法としか使はないでかき上げたつもりである。
・「古事記」が最もおごそかに告げてゐることの第一は、われわれ日本人は、その國民的生活の最初の出立から、天皇と、天皇のお位と、すべての祖先とを、いかに絶對の神聖として貴んで來たか、及びそれと一しよに、すべての天皇が根本の御責任として、人民の進歩と幸福とに向つて、それぞれいかに大なる努力を拂はれたかの事實である。/「古事記」に出て來る多くの人々は、この天皇と天皇のお位との神聖と、そして天皇の上記のお責任とを、いづれも完全に支持し奉るために、或は勇ましく身命を投じ、又は非常な困苦の下に喜んでさまざまの奉公をつくしてゐる。
・われわれが、「古事記」の話し手と記者とに對して、根本に最愕き喜ばなければならないことは、この本がすべての事柄を、どこまでもありのまゝに傳へてゐるその素朴な態度である。
・古事記のすべての事實が、表現法の上に於ても、又寸分の飾りを帯びない、純日本人の思想と言ひ現し方で以て話されてゐることである。/この中に語られてゐる日本人は、まだ精神上では、支那や印度の思想なぞが一寸も這入つてゐない、生れたまゝの純日本人である。

 「赤い鳥」に連載する歴史童話が『古事記』であった理由は、この「序」に書かれているような「素朴な態度」「飾りを帯びない、純日本の思想」であるところに集約されているでしょう。『古事記物語』を「平俗な言葉と、普通な語法」で書き上げた三重吉は、文章表現をより重要視していることがわかる。
  そもそも『古事記』というのは、「中国の律令制度をもととして作られた古代国家の完成段階に成立」したものです。
 「一世紀以来、倭の王たちが中国王朝と交渉をもってきたことは、『後漢書』等の中国の正史の記すとおり」であり、その交渉は周辺諸国の王たちに王位を与え、君主関係を設定するやり方である「冊封」と呼ばれます。倭の奴国王や卑弥呼は倭王として任じられました。そこから後には、「冊封関係は、七世紀以後、隋・唐との間では認められない」、「冊封関係を離れ、「天皇」のもとに成り立つ世界「日本」を構築する」という状況に変わります。ざっくばらんに言えば、「「大国」として天皇の「天下」を成り立たせる」ことが大前提であり、「その営みが『古事記』であり、『日本書紀』であった」、ということです。(引用箇所:神野志隆光・山口佳紀 校注訳『古事記 新編日本古典文学全集1(小学館、初版一九九七年)』)
  三重吉が『古事記』を選んだのも、そういった「冊封」から抜け出て、日本古来の思想を記述していると考えたからでしょう。一方の『日本書紀』には「支那や印度の思想」があります。道教とか、仏教的な内容です。というのも『日本書紀』は中国やアジア諸国に対抗するべく書かれたものとされており、ストーリーの細部に違いがあります。
 三重吉は(「赤い鳥」では終盤まで控え目にしつつも)軍国主義的な思想を持っていました。天皇が統治する国、それをこのような理由があって、と正当化するものが『古事記』、ということでもあります。
  三重吉自身、『少国民』に投稿していたこともあります。また、昭和四年に「国家主義の立場から騎道により少年諸君に精神教育をさづけ、勤勉、誠実、義勇、高潔なる人格を養成する」ことを目的として、「日本騎道少年団」を設立し、陸軍省の後援で軍隊的な訓練を施しました。三重吉はむしろ国粋主義的な思想を持ちながら、休刊前の『赤い鳥』では、それを前面に押し出すことがなかった。
 「子ども」ということ。「軍国主義」ということ。この辺りが、「少年倶楽部」との違いなのかもしれません。「少年倶楽部」は時代の変化によって柔軟に中身で勝負出来ました。しかし「赤い鳥」は、掲げたモットーを崩すことはしなかったのです。

2014/06/24