巻の三

 少年の父は大酒飲みだ。たまに愛人の家から帰ってみては、酒、酒と怒鳴り散らしていぢめるのだ。それで、少年はお酒を買いに、朝でも夜でも出掛けて行くのだった。
 少年はよく灰皿で頭を殴られる。灰が飛び散り頭が切れて血が出ても父は構わずに相撲を見ている。酔って乱暴に柱時計を壊そうとするときは、少年は慌ててそれを抱え、夜の庭に座り込みしくしくと泣く。少年は父が怒るのは自分のせいだと思っていた。兄が病気して死んだのも、母が気苦労で死んだのも、すべてが自分のせいだと思っていた。
 その日も彼は柱時計を背負い、夜の道を、酒を買いにひたすら歩いている。
「おい、そこの! 助けてくれ! 死んじまう!」
 ふと声が聴こえて辺りを見回せば、次郎が木に縛り付けられている。近付いて見ると、服は肌蹴て首元を幹に結われていた。弄られたのか肌蹴た腹には白濁が飛んでいる。
 少年は柱時計を置いて首の結び目を解いてやり、腹のを持っていた手拭いで拭いてやった。
「アア、死ぬかと思った……」
「次郎さん、また怒らせたんですか」
「怒らせたんじゃない、ありゃア、……ア、……遊んでるンだ!」
 首を擦り擦り、次郎は言う。
「どうかなア」
「ところで、少年、もう夜中だぜ。ガキャア、寝る時間だ」
「僕、そんな小さい子じゃないよ。お使いをしてるんだ、お酒を……」
「酒!」
 その一言を聴き、眉を顰め。ひどく不機嫌そうな顔。
「ばかだな、おまえ、本当にばかだ! 酒ッてのはな、あンなの、クルクル、パアになるだけだ!」
「次郎さんは好きじゃないの?」
「寒気がするね! おまえ、いまに、後悔するぜ。ヨシ、昔話をしてやろう」
 打って変わってジンワリと口角を上げる次郎。少年は柱時計の隣へ腰を下ろし、話を聞いてやる。
「おれアな、酒飲みの親父が大嫌いだッたんだ! だから、酒に農薬を混ぜて殺してやッたンだ、兄貴とふたりで、それで、腹から真っ二つにして、……ダ……誰にも、お互いにもだぞ、何処へ棄てたか、何処へ行くのか、誰にも言わずに、シ……死体を担いで飛び出したンだ! それで、汚い川に、投げ棄てて……」
「……それ本当?」
「考えてもみろよ、おまえ、おまえが死んだッて別の子種が幾らでもできるんだぜ、種馬みてエに、幾らでも、悔しくねエのかよ、なア」
 ポカリと浮かぶ月を眺めながら話に耳を傾けていた少年、不思議そうに彼の顔を見る。
「ふうん、僕はテッキリ、次郎さんは、悔しい……だなんて、感じないのかと思ってたよ」
 次郎はそこから立ち上がり、少年が見ていた月を見上げた。何かが見えているかのように、月へ手を振って笑う。少年はそれを、ヤハリ不思議そうに見ている。
「おれはな、ホントは、箸を落としたッて悔しいよ」
 それでも少年は農薬を貰おうともせずに、すぐに酒屋への道へ戻っていった。帰りは、大きなビンを抱えて、重くて重くて仕方がない。背も重く、何度も転びそうになる。
 背は重いが、柱時計を背負っていると、母と共に歩いているような気になって嬉しかった。母の生前、ふたりで買い物へ行ったことが懐かしかった。母は贅沢をしないひとで、いつも彼ら兄弟や父の欲しいものを尋ねた。今では帰ると地獄のようなのに、その家は確かに、大事で大事で仕方無い家だ。母のあたたかな膝枕を今でも覚えている。もう一度あの膝を貸してくれないかなと、柱時計を前に、彼はいつも思うのだった。触るとひどく硬い。もう一度、柔かな母の指や、腕に触れたかった。強く抱き締めたかった。酒に満足した父はイビキをかいて寝ている。父が幸せになりますように……と少年は祈った。眠い目を擦り擦り、散らかった部屋を片付ける……。


 旗の少女は、実のところ、クラスメイトではなかッた。授業でも、移動教室でも、何処にもおらず、ただフトしたときにその姿を見ることがある。
 柱時計の少年は、授業中は席の隣に時計を下ろして、それで授業を受ける、スルト少女が突然やって来て、興味深そうにそれを弄くりまわしていることがある。授業の始まりにはいなかッたのに、試合でボールをぶつけてくることもある。校門を出るときにはいなかッたのに、帰り道はいつも一緒だった。
 ソウして、柱時計の少年、旗の少女のひとり邸宅へ上がり込んだ。彼女の家は刃物屋の二階を間借りしていて、こぢんまりとしているけれども、そのこぢんまりとした床が新聞や本やレコードで埋め尽くされて、足の踏み場もないほどだ。柱時計は気を利かせて片付けてやろうとする。
「そこの本はあまり崩さないで、ただでさえ、日の丸がやんちゃなんだから。──はい、これが公民館に貼る新聞。こっちが駄菓子屋。それでこれが、小学校の裏。もう一枚は鵺鳥公園。ひとつだけ厚紙に貼ってあるのが、ラーメン屋のフェンス。憶えた? 憶えたらさッさと行って来なさい」
 柱時計、紙を押し付けられ、少女は表情ひとつ動かさずに。日の丸というのは子猫である。竹槍、赤富士、旭、神風、そしていちばん小さな日の丸である。いずれも拾い子。年長は竹槍で、見たところ十は超えている。
 少女が押し付けたは、かの「なんとか博」であった。いつも彼女自身がチャリンコで貼り回るか、柱時計がえっちらおっちらと貼り回る。すると、子どもがガヤガヤと集まってそれを見るのだ。彼女の作る新聞は一種、まじないか何かのように、ひとだかりを作るのだッた。大人には見えぬが大盛況間違いなしだ。
 柱時計は言われるがまま、紙を持ち、柱時計を背負って、二階から降りた。


「ヤア、お疲れ」
 駄菓子屋の前で、柱時計は、デイゴにビラを一枚取られた。いつもこうして、貼る前のビラを横から取って見るのである。
「ア、あの、はやく帰らないと怒られますから…」
「なんだッて? 僕は美鈴よりウンと偉いよ」
 デイゴはケラケラと笑い、新聞を返す。それで少し申し訳無さそうに。
「あの子も、もう少しお転婆で無ければね、きみも大変だろ」
「ううん、ドロテーちゃんは、僕にとても優しいですよ、いないと僕はドウにかなりそうです」
「そう。それは良かった」
 良かった、とは言いつつも、デイゴは複雑な表情を浮かべる。それが哀しそうに見えたので、少年は困ってしまって、そのままそそくさと立ち去ってしまった。